ポケットの栗の実三個ほどの幸


虫すだく中を焼肉囲みけり


火恋し遊び疲れた子供たち


キャンプ場去るや団栗捨てにけり


茨木県「豊里ゆかりの森キャンプ場」にて(9/30~10/1)

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# by haikutarou | 2017-10-05 10:54 | たかが俳句されど俳句 | Comments(0)


むら芒風の吊り橋揺れもせず


新蕎麦やかって登りし峰の呼ぶ


雲映す水無川や水の秋


風の吊橋(県立秦野戸川公園にて)
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# by haikutarou | 2017-10-04 08:50 | たかが俳句されど俳句 | Comments(0)


詩的言語と日常生活の言語との違いを正確に述べたのは、スイスの思想家マックス・ピカートの次の文である。
「日常生活の言葉では、人間は人間や物について自分が語る言葉を聞いている。しかし詩の言葉では、人間は物が物自身について語る言葉を聞くのである」(筆者訳)
詩とは何かをこれほど見事に述べた文章は滅多にないように思われる。芭蕉のつぎのような句を例にとって見よう。
さまざまの事おもひ出す桜かな
六月や峰に雲置く嵐山
ほろほろと山吹ちるか滝の音
ピカートによれば、これらの言葉は、桜や嵐山や山吹について芭蕉が言っている言葉ではない。芭蕉の言葉の中で、桜や嵐山の夏雲や山吹の花が自分自身のことを語っている言葉なのである。そんな気もするというのではない。実際に語っているのである。だから、これらの句に感動する人は、言葉が、物に対して人間が外から貼りつけた記号やレッテルなのではなく、物そのものを生み出していることに驚いているのである。詩とは存在のコピーではなく、存在そのものを想像し建築するいとなみである。
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言うのは、芭蕉の個人的な東洋趣味というようなものではない。洋の古今を貫く詩的言語の本質への途を告げているのである。人間の言葉よりも先に人間に呼びかける宇宙の言葉がある。その言葉を聞いたら、人間の自我は破れ、その破れ目から本来の言葉が出くる。それを詩という名で呼ぶのである。(大峯あきら(俳人
(朝日新聞「花壇・俳壇」より)


# by haikutarou | 2017-10-03 08:21 | たかが俳句されど俳句 | Comments(0)


水切りの小石届けり天の川     小谷一夫

海へ海へと流るる水よ曼殊沙華   野崎憲子  

二時間に一本のバス落し水     竹内宗一郎

大花野昨日の雨の匂ひして     児玉倫子

秋の蚊のかぼそき声に裏切られ   高田菲路

雲の峰阿蘇は火の山水の山     池田合志

笑うことありしか母の笑む遺影   宇都宮克之

# by haikutarou | 2017-10-03 06:54 | 名句鑑賞 | Comments(0)


   雪解川名山けづる響きかな   前田普羅


「蛇笏の句を思わせるオーソドックスな格調を持った句。《名山けづる》とは気負った表現である。だが《響きかな》という座五が非常に力強い格調を持っているから、この誇張した大時代な表現も不自然ではない。」
 虚子門の四天王の一人という前田普羅に多くの人に知られた名句が少ないのは、著者によると「普羅には広く流布している句集ないことと、多数の門下をもつ主宰誌をもっていなかったからだが、それは彼の作品の評価に関係することではない。彼の句柄の高さから言えば、彼は蛇笏とともに現代俳句を代表すべき一人である」と。
多分そのためと思うが、山、特に日本アルプスを愛した私もこんなにも山の俳句を残している俳人がいたとは認識不足でした。だから本あれこれ言わずに乱読がいいと改めて思いました。


  春尽きて山みな甲斐に走りけり   前田普羅

茅枯れてみづがき山は蒼天に入る

浅間なる照り降りきびし田植笠   


# by haikutarou | 2017-09-29 17:12 | 名句鑑賞 | Comments(0)